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東京地方裁判所 平成3年(ワ)3448号 判決

原告

甲野一郎

甲野二郎

甲野春子

右法定代理人親権者父

甲野一郎

右三名訴訟代理人弁護士

二宮忠

二宮充子

右訴訟復代理人弁護士

山本至

被告

医療法人社団○○

右代表者理事長

乙川夏夫

被告

丙山秋夫

右両名訴訟代理人弁護士

平沼高明

堀井敬一

木ノ元直樹

加藤愼

永井幸寿

右平沼高明訴訟復代理人弁護士

水谷裕美

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一  請求

被告らは、各自、原告甲野一郎に対し、金三三五七万一三五〇円、原告甲野二郎及び原告甲野春子に対し、それぞれ金一五二一万二一七五円、並びにこれらに対する平成二年六月一三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

一  本件は、訴外甲野花子(昭和二四年九月五日生まれ、以下「花子」という。)が被告医療法人社団○○(以下「被告○○」という。)の開設・運営する乙川眼科病院(以下「被告病院」という。)において被告丙山秋夫(以下「被告丙山」という。)の主執刀による手術中に死亡したことについて、花子の相続人である原告らが、それぞれ被告○○に対しては診療契約上の債務不履行又は不法行為(使用者責任)を理由として、被告丙山に対しては不法行為を理由として、相続した逸失利益及び慰藉料等の損害金合計六三九九万五七〇〇円(原告甲野一郎〔以下「原告一郎」という。〕につき三三五七万一三五〇円、原告甲野二郎〔以下「原告二郎」という。〕及び同甲野春子〔以下「原告春子」という。〕につき各一五二一万二一七五円)及びこれに対する花子の死亡の日である平成二年六月一三日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の各賠償を求めている事案である。

二  基礎事実(当事者間に争いのない事実及び公知の事実ほかは、括弧内掲記の証拠により認定した。)

1  (当事者)

原告一郎は花子の夫であり、原告二郎及び同春子はいずれも花子の子である。原告らは、花子の死亡によりその権利義務を、原告一郎は二分の一の割合で、原告二郎及び同春子は各四分の一の割合で、それぞれ相続により承継取得した(弁論の全趣旨)。

被告○○は、科学的かつ適正な眼科医療を普及することを目的とした社団であり、東京都千代田区神田駿河台四丁目三番地において被告病院を開設・運営している。被告丙山は、昭和五三年ころから、同病院において非常勤で診療行為に従事している医師である(乙第九号証、被告丙山本人尋問の結果)。

2  (診療契約の締結及び診療経過等)

(一) 花子は、昭和六一年一月二〇日、愛知県所在豊川市民病院において、左眼がブドウ膜炎(ブドウ膜〔眼球にある虹彩、毛様体、脈絡膜の総称。血管と神経に富み、メラニン色素により黒褐色を呈している。〕の炎症の総称)に罹患しているとの診断を受けたため、同病院に入院し、その治療を受けていた(なお、花子の右眼は、昭和三六年に失明している。)。

(二) その後花子は、眼科治療については評判の高い被告○○の経営する被告病院で治療を受けることとし、昭和六一年一月二七日、同被告に診療を委任したところ、同被告はこれを了承したため、同日、花子と同被告との間に、花子の眼科治療を目的とする診療契約が成立した(以下「本件診療契約」という。)。被告病院は、花子に対し眼科的諸検査を行い、同女をブドウ膜炎及び近視性乱視と診断した上、翌二八日から、入院治療をすることとした。被告○○は、右入院治療にあたって、主治医であった訴外A医師(以下「A医師」という。)らをはじめとする医師及び看護婦を履行補助者としてこれに当たらせた(乙第一号証の一、第五号証の一、四、一〇、第六号証)。

(三) 右入院治療は、昭和六一年一月二八日から同年一二月二六日まで続き、その間、花子に対しては、眼底検査等の諸検査や抗ウイルス剤等の薬剤投与、右眼摘出手術等が行われた。さらに、花子は、同六二年一月六日から同年一二月一五日まで被告病院に再入院し、その間に訴外日本大学附属板橋病院(以下「日大病院」という。)眼科による角膜(眼球壁の正面にある透明な部分で、その大部分は強膜〔白眼部分〕の前方の続きをなしている。)の移植手術を受けた。その後、花子は、同六三年一月一一日から毎月一回の割合で被告病院における通院治療を継続していたが、被告病院は、平成元年一〇月から一一月ころ、角膜、網膜(カメラのフィルムに相当する部分で、眼球壁に沿って内側にある。)、硝子体(水晶体〔眼のレンズに相当する無血管の透明な組織で、角膜とともに光線を屈折させ網膜上に像を結ばせる役割を果たすもの〕の後ろにある眼球内を満たしているゲル状の組織で、眼球を一定の形に保つとともに、網膜部分をその後ろにある脈絡膜〔強膜の内面を被い、外部からの光線を遮断する用をなすとともに、血管の通路をなすもので、極めて血管の豊富な組織であり、眼内循環の約九〇パーセント以上がこれを通過する。〕に押し付けているもの)の手術を検討する必要があるとして、同年一二月ころ、角膜の再移植を行い、その三か月から四か月後に硝子体及び網膜の手術を行うことを決定した。花子は、平成二年四月一五日、日大病院眼科において再度角膜移植手術を受け、同年六月一一日、硝子体切除術を受ける目的で、被告病院に入院した(乙第一号証の一、第五号証の一、二の一、二、四ないし一五、第六号証)。

3  (本件手術の実施及び花子の死亡)

被告○○は、右入院日の翌々日である平成二年六月一三日、花子に対し、左眼の炎症部分及び硝子体の混濁を取り除いた上、網膜剥離(一〇層からなる網膜が、最外層〔色素上皮層〕と内側の九層〔感覚網膜〕との間で分離する状態)の治療をして網膜を復位させることを目的とする手術(以下「本件手術」という。)を行い、主執刀医被告丙山、助手A医師、看護婦訴外B外三名(以下「本件看護婦ら」という。)等をそれぞれ履行補助者としてこれに当てた。

ところが、花子は、同手術中、容態が急変し、同日午後八時四分に死亡した(以下「本件死亡」という。乙第一号証の一、第二号証、第五号証の四、一二ないし一五、被告丙山本人尋問の結果)。

4  (司法解剖)

花子の死後、同女の遺体は、東京大学医学部法医学教室に搬送され、平成二年六月一三日、同教室所属の大学教員である鈴木裕子(以下「鈴木」という。)によって花子の司法解剖が行われた(以下「本件司法解剖」という。)。鈴木作成にかかる平成二年七月三〇日付死体検案書には、花子の直接死因が空気栓塞症(肺の機能血管である肺動脈等が栓塞子〔空気〕により栓塞する疾患)である旨の記載があった(甲第一号証、証人鈴木の証言)。

三  争点

1  被告らの過失の有無

(一) (原告らの主位的主張)

本件死亡は、空気栓塞症によるものか。仮に空気栓塞症によるものであったとして、花子が右栓塞症を引き起こしたことにつき被告らに過失が認められるか。

(原告らの主張)

(1) 本件死亡の原因

本件死亡の原因が、空気栓塞症によるものであることは、花子の死亡後、その司法解剖にあたった鈴木の作成にかかる死体検案書及び調査報告書の記載から明らかである。

そして、本件手術においては、空気灌流装置(眼内に空気を持続的に灌流させ、一定の眼圧を保つ装置)を用いて、花子の左眼硝子体内に強制的に空気を注入していたこと、左眼の脈絡膜の血管に異常な拡張があったこと及びこの拡張以外に空気が入るような所見を他に発見することができず、かつ空気侵入の原因も考えられないことからすると、右空気栓塞症の原因となる空気の入路としては、左眼脈絡膜の血管以外考えることができない。

すなわち、右空気栓塞症の原因となる空気が侵入した経路としては、本件手術において、空気灌流装置を用いて花子の左眼硝子体内に強制的に空気が注入され続けた際、空気を注入している灌流針の全部又は一部が脈絡膜内血管を損傷して右血管内にとどまったため空気が右血管内に侵入し、もしくは右針が脈絡膜内血管内にとどまらなかったとしても右血管の損傷部分から空気が侵入し、又は花子の網膜剥離により既に損傷されていた脈絡膜内血管部分から侵入したものというべきであり、右のような経路で右血管内に進入した空気は、血液とともに心臓に達し、さらにこれが肺にまで達したこと(肺の一部が虚脱症状を呈していることから明らかである。)により、花子は空気栓塞症を引き起こし、これを原因として死亡したものである。

(2) 右空気栓塞症惹起についての被告らの過失

本件手術のように、極小物体(直径約二四ミリメートル程度で断面は五〇〇円硬貨よりやや小さい。)である眼球内を治療するにあたっては、眼科医としては、眼球内の組織を損傷するおそれが十分に予知できるのであるから、これを避けるため、機械の操作等には十分注意をする義務を負い、特に本件手術のように強制的に空気を注入するにあたっては、眼科医には、当該空気が血管内に侵入することを未然に防止すべき注意義務が課せられていたものというべきである。

しかるに被告丙山らは、これを怠り、本件手術にあたって、前記のような経路で脈絡膜内の血管に空気を侵入させ、しかも、これに気付かず空気灌流装置によって花子の左眼にさらに空気を強制的に注入し続けたことにより、花子に空気栓塞症を引き起こし、よって同女を死亡させたものである。

(被告らの主張)

(1) 原告らの主張によれば、空気灌流圧(眼球に注入する空気が同時に灌流針と眼球とが接する部分から漏れ出て流動している状態の下での圧力)下で、静脈圧に逆らって空気が脈絡膜に入っていくこと、及び三〇分間の空気灌流で大量(最低七〇ミリリットル)の空気が心臓に達することが必要であるが、これらは現実にはあり得ないことである。

灌流針が脈絡膜内の血管に留置された結果、空気が血管内に侵入した可能性は、灌流針の直径が一ミリメートルであるのに対して脈絡膜内の血管の直径が0.05ミリメートルないし0.1ミリメートル前後の太さであることから、物理的に全く考えられない。また、我が国の臨床医学上、細動静脈又は毛細血管レベルの損傷で空気栓塞症が惹起され、その結果患者が死亡した報告例は皆無であり、さらに硝子体手術において予想される危険として、内外の文献を通じて、手術中に血管内に空気が流入するとの合併症の記載はなく、これを経験した例もないのであるから、原告らの主張はいずれも理由がない。

(2) 鈴木作成にかかる花子の死体検案書に、花子の解剖時、右心房及び肺毛細血管内に空気が存在した旨の記載があることは認めるが、右空気の存在は、花子の死因とは関係がない。

(二) (原告らの予備的主張1)

本件死亡は、アシュネル現象を原因とする心拍動の停止によるものか。仮にアシュネル現象によるものであったとして、花子が右アシュネル現象を引き起こしたことにつき被告らに過失が認められるか。

(原告らの主張)

(1) 本件死亡の原因

本件手術のような硝子体手術においては、手術のために眼球(外眼筋)に様々な圧力が加えられるものであるところ、この際、右圧力のためアシュネル現象(眼球に圧力を加えると、眼球の後方にある三叉神経末梢が刺激され、これが反射的に迷走神経の中枢を興奮させることにより、迷走神経の緊張亢進状態を生じさせ、心拍を停止させる現象)を引き起こすことがあり、本件手術中にも花子の眼球に力が加えられたため、右アシュネル現象が発生し、その結果心拍が停止し、花子は死亡したものである。

(2) 右アシュネル現象惹起についての被告らの過失

(イ) 被告丙山らは医師であり、右アシュネル現象についての医学的知識を当然有していたのであるから、同人らのなした医療行為の方法いかんによっては、花子にアシュネル現象が生じて、その結果心停止に至ることを十分予見できる立場にあった。とりわけ、被告丙山らは、桐沢型網膜剥離に罹患している花子に対し網膜剥離治療の手術をしたものであり、この手術においては、眼球(外眼筋)に多大な力が加えられるのであるから、患者が眼球に力を加えられることにより、アシュネル現象を引き起こし、ひいては心停止を起こさぬように最善の注意を払うべき義務を負っていた。

すなわち、被告丙山らは、本件手術にあたって、アシュネル現象を引き起こさないような程度の力をもって手術をしなければならないことはもとより、常に心拍数を示すモニター等に注意を払い、アシュネル現象の前兆ともいうべき心拍数の減少があれば、直ちに手術を一旦中止したり、突発的なアシュネル現象に基づく心停止が生じた場合には、これに対応して直ちに心臓マッサージ等の患者の回復をすることができるような態勢をとるべき注意義務を負っていた。

しかるに、被告丙山らは、右アシュネル現象を起こさないような程度の力をもって手術をしなければならない注意義務に違反して花子の眼球に過度の力を加えたため、花子にアシュネル現象を生じさせたものである。

(ロ) また、仮に右アシュネル現象が突発的に生じるものではないとすれば、その前兆として花子の心拍数が減少するなどの兆候があるはずであり、これは、手術室内に設置されている各種モニターによりチェックすることができるものであるのに、被告丙山らは、右チェックを怠ったことにより、花子のアシュネル現象の兆候を把握することを看過したものである。

一方、仮に、アシュネル現象が突発的に生じるものであるとすれば、被告丙山らは、本件手術にあたり、かかる現象が生じないように眼球の手術をすべきであるところ、これを怠り、かつ、アシュネル現象に基づく心停止に備えての態勢を採っていなかったことから、これに対応した迅速な回復措置をとることができず、花子を死亡させたものである。

(被告らの主張)

(1) 花子はアシュネル現象により死亡したものではない。

(2) 眼球圧迫を故意的に行いアシュネル現象を発生させ、これを利用して行う自律神経機能検査法としてアシュネル試験があるが、本件硝子体手術は、右アシュネル試験の方法とは全く手技を異にしており、患者の心停止をきたすような危険はない。手術中に、迷走神経の興奮による心拍数の減少(徐脈)を呈することは、一般的にはあり得るが、手術担当者は、心電図モニター等によりこれを観察しているため、徐脈が発生すれば直ちに対処することができるところ、本件手術中には、心電図モニター上、徐脈は認められなかった。したがって、本件手術中に眼心臓反射(アシュネル現象)が発生したとする原告らの主張は理由がない。

(三) (原告らの予備的主張2)

被告らには、本件手術中花子が「ウッ」という声をあげているにもかかわらず、手術を中止して、適切な処置をとることを怠ったという過失が認められるか。

(原告らの主張)

(1) 花子は、本件手術中である平成二年六月一三日午後五時四五分ころ、「ウッ」という声を上げていることから、そのころ、花子には本件手術を原因とする何らかの異常が発生したものと考えられる。このような場合、手術担当医師としては、患者に何らかの異常が発生したことを認識できたし、また認識しなければならなかったというべきであるから、この患者の容態変化に対応して医師として適切な処置をすべき注意義務を負っていた。

すなわち、手術中に患者がこのような声を発した場合には、手術担当医師としては、絶えず患者の動向に配慮し、より詳しく患者の容態を観察した上、本件手術を中止するなどして事故の発生を未然に防止すべき注意義務を負っていたものというべきである。とりわけ、手術を受けている患者は、医学的知識に乏しく、医師を全面的に信頼しているのであるから、自己の体に発生している異常な状態につき、それが最悪の結果(死亡)を招くものとなるとの意識を持つはずがなく、単に手術に伴う症状にすぎないと思うのが通常である。したがって、被告丙山らとしては、花子の言辞による返答を鵜呑みにするのではなく、当然に花子の発した「ウッ」という声により、花子の身体に空気栓塞症又はアシュネル現象などに起因する異常が発生していることを認知した上、これに適切な処置をとらなければならない注意義務を負っていたものというべきである。

(2) しかるに、被告丙山らは、花子が「ウッ」という声を発したにもかかわらず、単に、「痛いですか。」「大丈夫ですか。」と質問するのみで、かつ、「少し息苦しいだけです。」「ハイ大丈夫です。」との花子の返答を鵜呑みにして、同女に対してより詳しい観察等をすることを全くしなかった。このように、被告丙山らは、右患者の事故発生を未然に防止すべき注意義務の履行を怠り、漫然と本件手術を続行したことにより花子の死の結果を発生させたものである。

(被告らの主張)

(1) 手術中に患者が「ウッ」と言うことはままあることであって、「ウッ」という発声そのものからその原因を認知することなどは何人もできない。

(2) 被告丙山らは、本件手術中、花子が「ウッ」と言ったときに、「痛いですか。」「大丈夫ですか。」と問診し、花子の「ハイ、大丈夫です。」との返答を確認した上で本件手術を続行したものであり、花子の血圧、心電図にも変化がなく、呼吸困難、脈拍等の異常は認められなかったのであるから、このような場合に、被告丙山らには、原告主張のように本件手術を中止し、適切な処置をする義務はなかったというべきである。

(四) (原告らの予備的主張3)

被告らには、花子の容態急変後、適切な回復措置をとらなかった過失が認められるか。

(原告らの主張)

(1) 花子は、本件手術中である平成二年六月一三日午後五時五五分ころ、容態を急変させた。このような場合、手術担当医師としては、自ら患者に対して心臓マッサージ等の処置を採るべきことは当然のこととして、直ちに、患者の循環状態及び呼吸状態の管理を行った上、患者の全身状況の把握につき権限を有し、特に緊急状態下における蘇生術に長けている麻酔医に依頼してその状態を確認し、適切な処置を施すなどして最悪の結果が生じることを防止すべき注意義務があった。

(2) しかるに、被告丙山らは、直ちに右のように麻酔医に依頼して花子の状況を確認したり、適切な措置を施すことをせずに、花子の容態急変後一時間が経過した後になって、ようやく訴外東京慈恵会医科大学附属病院(以下「慈恵医科大病院」という。)から麻酔医を呼び寄せたにすぎない。

(3)(イ) これは、被告丙山らが本件手術を安易に考えていた結果に他ならず、このことは、本件手術のような網膜剥離の手術において通常採用される麻酔方法は全身麻酔であるにもかかわらず、被告丙山らが採った麻酔方法がいわゆる局所麻酔であったことからも明らかである。すなわち、網膜剥離の手術において全身麻酔の方法が採用されるのは、一般にはこれが広範な手術であるためとされているが、これのみならず、全身麻酔であれば麻酔医が手術に立ち会うため、手術中における患者の容態の急変に対し、右麻酔医が、直ちにしかも適切に対応することができるからでもあるところ、被告丙山らは、本件手術にあたり、局所麻酔の方法を採用したのである。

(ロ) また、被告丙山らは、局所麻酔の方法を採用した場合であっても、手術中においては、本件手術の場合のように患者の容態が急変することも十分に考えられるのであるから、最悪の状態に備えて麻酔医を常置させるべきであった。

しかるに、被告丙山らは、本件手術中、被告病院内に麻酔医を待機させていなかったのみならず、その依頼も遅れるなどして、花子の容態急変に対し、即時のかつ適切な判断とそれに対する対応がとることができず、その結果、花子を死に至らしめたものである。

(被告らの主張)

(1) 本件手術において助手をしていたA医師は、昭和六〇年七月から翌六一年五月までの間、慈恵医科大病院麻酔科において、麻酔について特に研修を受けたものであり、厳密な意味での麻酔医ではないが麻酔医に準じるものである。

原告らは、通常、本件手術のような手術においては、全身麻酔が採用されるべきであると主張するけれども、我が国においては約八〇パーセントの大学病院において局所麻酔が採用されているものであり、被告丙山らが本件手術に局所麻酔を用いたのも、本件手術を安易に考えていた結果ではない。局所麻酔は患者の意識が保たれるため、痛いとか苦しいなどの訴えを聞くことができる利点があるし、また、アシュネル現象に関していえば、全身麻酔であってもこれを防ぐことはできないし、本件手術においては、眼の周辺眼球の後部の局所麻酔を行っており、アシュネル現象はむしろおさえられている。

(2) また、被告らは、本件手術において、A医師が右慈恵医科大病院麻酔科で研修してきたとおりの蘇生術を行っており、被告病院に麻酔医を常置すべき義務は存しないというべきである(ちなみに、大学病院においても、麻酔医を立ち会わせた上での局所麻酔による手術などは行われていないのが現状である。)。

したがって、被告らは、本件手術において、花子の容態急変後に対応した適切な回復措置をとったというべきであり、原告らの主張には理由がない。

2  損害額

(原告らの主張)

(一) 逸失利益 三〇八四万八七〇〇円

(1) 賃金センサス平成元年第一巻第一表の産業計・企業規模計・新高卒女子四〇歳の年収(三〇〇万九六〇〇円)を基礎とし、生活費三〇パーセントを控除した上、花子の就労可能年数である二七年に対応するライプニッツ係数により中間利息を控除して次のとおり求めた。

300万9600×(1−0.3)×14.643=3084万8700

(2) 右三〇八四万八七〇〇円は、原告一郎がその二分の一にあたる一五四二万四三五〇円を、原告二郎及び同春子が各四分の一にあたる七七一万二一七五円をそれぞれ相続した。

(二) 慰藉料 二五〇〇万円

(1) 花子は、本件死亡前には、両目の疾病を除いては精神的にも身体的にも健全で夫にも子供にも恵まれていたにもかかわらず、未だ四〇歳の若さで将来の楽しい生活を無惨にも絶たれた。また、原告らは、明るい妻であり母である花子を失い、唯茫然自失の連続でその精神的苦痛は筆舌に尽くしがたい。

(2) そこで、原告一郎は一〇〇〇万円、原告二郎及び同春子は各七五〇万円の慰藉料請求権をそれぞれ取得した。

(三) 葬儀費用八二万七〇〇〇円

原告一郎が負担した。

(四) 死体運搬費用 四二万円

原告一郎が負担した。

(五) 弁護士費用 七〇〇万円

原告一郎は、右(一)ないし(四)の合計五七〇九万五七〇〇円に対する東京弁護士会制定による報酬会規に基づき、その標準額を着手金、報酬額として支払う旨約した。

(六) 弁済の充当 一〇万円

被告○○は、花子の葬儀の際、原告一郎に対し見舞金名下に一〇万円を支払ったため、これを原告一郎の損害に充当する。

(七) まとめ

(1) 原告一郎につき、三三五七万一三五〇円

但し、右(一)(2)記載の一五四二万四三五〇円、(二)(2)記載の一〇〇〇万円、(三)記載の八二万七〇〇〇円、(四)記載の四二万円及び(五)記載の七〇〇万円の合計額三三六七万一三五〇円から、(六)記載の一〇万円を控除した金額。

(2) 原告二郎及び同春子につき、各一五二一万二一七五円

但し、右(一)(2)記載の各七七一万二一七五円及び(二)(2)記載の各七五〇万円の各合計金額。

第三  当裁判所の判断

一  事実経過

前記基礎事実に、甲第一、第三号証、乙第一号証の一、二、第二ないし第四号証、第五号証の一、二の一、二、三の一ないし六、四ないし一五、第六、第一一号証、第一三ないし第一五号証、証人鈴木の証言、被告丙山本人尋問の結果及び弁論の全趣旨を総合すると、以下の事実を認めることができる(一部公知の事実を含む。)。

1  (本件手術に至る経緯)

(一) 花子は、昭和六一年一月七日、左眼が曇ったようになり見えづらいとの症状を訴え、近医を受診したところ、結膜炎(結膜〔強膜の上で眼球を保護している膜〕の炎症の総称)との診断を受けた。さらに花子は、前記豊川市民病院への紹介を受け、同月一七日、同病院を受診したところ、右眼はほとんど失明状態であり、左眼はブドウ膜炎に罹患し、視力が0.6、眼圧が二五水銀柱ミリメートル、眼底では視神経乳頭部(黄味を帯びた白色の円盤で、やや縦に長く直径が約1.6ミリメートルのもの)に浮腫(異常な水分貯留が起こった状態)を認め、網膜静脈の拡張、迂曲があるなどという内容の診断を受けた。

その後、花子は、同病院での外来診察を受けていたが、左眼の網膜浮腫が増強し、黄斑部(網膜の後極部にあるやや黄色で無血管の部分とその周囲部分で、外界の物体を注視するときにその像が結ばれる部位)に襞が出現するとともに、網膜の末梢部の浮腫及び出血も増強したため、昭和六一年一月二二日から同月二六日まで、同病院で入院治療を受けることとなった。

(二) その後花子は、伯母である訴外Cの助言に基づき、被告病院での受診を希望し、昭和六一年一月二七日、被告病院を訪れ、本件診療契約を締結した上、同病院での診察を受けることとなった。

被告病院は、同日、当時杏林大学から派遣されていた訴外D医師(以下「D医師」という。)を花子の主治医として診療に当たらせることとし、同女に眼科的諸検査を行った上、同女を桐沢型ブドウ膜炎(急性網膜壊死とも呼ばれ、その症状としては、硝子体混濁、眼底周辺部の白色滲出物の出現にはじまり、次第に硝子体混濁は増強・粗大化し、白色滲出物は融合して黄色滲出物となり、やがて黄色滲出物は吸収されて網膜が萎縮することにより網膜裂孔〔網膜に穴のあいた状態〕を生じ、そこから眼内の水が網膜の裏側に入り込んで網膜剥離を起こす。)及び近視性乱視と診断し、翌二八日から、同女に対し入院治療をすることとした。

右入院治療において、被告病院は、花子に対し、主治医であるD医師による治療のほか、ブドウ膜炎の大家である東京大学助教授(現教授)訴外E医師(以下「E医師」という。)による治療などを併せて行うこととした。そして被告病院は、花子に対し、ゾビラックス(抗ウイルス剤)、ブレドニン(副腎皮質ホルモン)等の薬剤を投与するなどして左眼の治療を行う一方、細隙灯顕微鏡検査、眼底検査、視力検査等の諸検査を経時的に施行した。その後、昭和六一年三月、D医師が杏林大学に帰還したことに伴い、被告病院は、A医師を花子の主治医としてその治療に当たらせた。E医師による治療等は、その後も継続して行われた。

(三) 昭和六一年三月初旬ころには、花子の左眼ブドウ膜炎に伴い発生した網膜剥離はややおさまったものの、眼底出血は依然として繰り返された。その後も花子のブドウ膜の炎症症状は一進一退で経過し、同年六月初旬ころからは、再度網膜剥離の状態となり視力も低下した。

被告丙山は、このころから花子の診療を行うようになった。

(四) 昭和六一年七月二五日ころ、被告病院は、花子が両眼、特に右眼に疼痛があり、これに頭痛が伴うという症状を訴えたため、同女の右眼の摘出を検討し、同年八月四日に右摘出手術を行った。

その後、花子の左眼視力は漸次低下し、昭和六一年八月二九日ころからは、白内障(水晶体が白く濁ってきて視力が低下する病気で、ブドウ膜炎が長く続くと必ず発生する。)を併発した。さらに、花子の左眼は、眼圧が低下するとともに、炎症症状も悪化したが、被告病院は、年内に一度花子を退院させ帰宅させることとし、花子は、同年一二月二六日に被告病院を退院した。

(五) 昭和六二年一月六日、花子は、被告病院に再入院した。

被告病院は、花子のブドウ膜の炎症症状が低下したことから、同女に対し白内障の手術を行うこととし、昭和六二年三月九日、病院長である訴外乙川夏夫医師(以下「乙川医師」という。)の執刀によりこれを行った。右手術により、花子の白内障は除去されたものの、角膜の状態はさらに悪化し、混濁が著しく、眼底の透見が不可能となった上、同年八月ころからは、視力も著しく低下した。

花子は、日大病院助教授崎元卓医師の診察により、角膜移植手術を受けることが必要であるとの診断を受け、昭和六二年一〇月一二日、右手術を受けるため同病院に転医した。そして花子は、同月一三日、同病院眼科において角膜移植手術を受け、同月三一日に再度被告病院に入院した上経過観察を受けたが、病状に特に変化が見られなかったため、同年一二月一五日、同病院を退院した。

(六) 昭和六三年一月一一日、花子は、再度被告病院の外来診察を受けたが、移植した左眼の角膜の状態も良く、眼底もかなり透見できるようになってきていたため、その後は経過観察を目的として、月に一度の割合で被告病院の外来での治療を受けることとなった。

被告病院は、右外来での治療においては、視力検査や眼底検査等を行うとともに、抗炎症剤やデカドロン(副腎皮質ホルモン)等の薬剤投与を行った。

(七) 平成元年一〇月から一一月ころにかけて、被告病院は、花子の左眼の硝子体の混濁が増強し、移植された角膜にもかなり強いダメージ(拒絶反応及びブドウ膜炎によるもの)があることなどから、角膜や網膜、硝子体の手術を検討する必要があるとの結論に達した。被告丙山は、花子の症状からみて手術は非常に困難なものであるが、手術によって網膜を復位させることで視力の回復が可能であると判断した上、花子に対し、右のような判断の内容に加え、仮に手術が失敗した場合には、眼がしぼんでしまう可能性があり、そのような場合、現在ある多少の視力も失われてしまうことになることなどを説明するなどして、同女と話合いをしたところ、同女が手術を受けることを強く希望し、また、主治医であったA医師も右手術の実施に積極的であったことから、手術を行うこととした。そこで被告病院は、同年一二月ころ、花子に対し、角膜の再移植を行い、その三か月から四か月後に硝子体及び網膜の手術を行うことを決定した。花子は、平成二年四月一五日、日大病院眼科において再度角膜移植手術を受けたが、その後の経過が良好であったため、同病院から、一か月後であれば硝子体手術を受けることが可能であるとの診断を受けた。

2  (本件手術中の事実経過)

(一) 平成二年六月一一日、花子は、硝子体切除術を受ける目的で、被告病院に再入院し、同月一三日(以下、同日中の出来事については、時刻のみを記載することとする。)の午後四時ころ、本件看護婦らとともに被告病院の手術室に入った。そして本件看護婦らは、本件手術部位を清潔にするため、花子の顔面にドレープ(術野を清潔に保つために被せる合成布)をかけ、その眼球、まぶた等をホウ酸水及びヒビデン液(いずれも消毒液)で洗浄し、さらに、本件手術中の花子の全身状熊(心臓の状態や血圧等)を把握するため心電図及び血圧計を花子に取り付けた。このような心電図及び血圧計等による花子の全身状態の管理は、A医師や被告丙山などの手術担当医師、又は本件看護婦らによって、本件手術を通じて継続して行われた。

(二) 午後四時一五分ころ、A医師が本件手術を開始し、手術中の痛みや眼球の動きを止めるためキシロカイン及びマーカイン(いずれも局所麻酔用の麻酔剤)各二ミリリットルを花子の左眼に球後注射(注射針を下まぶたの位置に刺し、眼球の後ろにある様々な神経の集まったところ〔球後神経節〕の近くに注射すること)した。その後、A医師は、スプリング切剪を用いて、花子の左眼結膜の五時及び一一時方向の二カ所をそれぞれ直角に切開し、続いて、ルビーメスを用いて、強膜の毛様体偏平部(角膜輪部〔黒眼と白眼との境目〕の端から三ミリメートルくらいのところ)三カ所を切開した上穴を開けた。そしてA医師は、右のように穿孔された強膜の穴のうちの一つに、インヒュージョン・チューブ(眼内に特殊な空気や水を入れるための管)をナイロン糸を用いて結びつけた。なお、その余の一つは眼球内採光のため、一つは炎症部分の切除、吸引等の作業のためそれぞれ穿孔されたものである。

(三) 午後四時三〇分ころ、A医師は、花子の痛みがとれないため、再びキシロカイン及びマーカイン各一ミリリットルを球後注射した。

(四) 午後四時三五分ころ、A医師は、本件手術の主執刀医である被告丙山に手技を交代し、被告丙山は、そのころ、花子の左眼硝子体の切除を開始した。

(五) 午後四時四〇分ころ、被告丙山は、花子の痛みが未だとれないため、さらにキシロカイン及びマーカイン各一ミリリットルを追加して球後注射した。

被告丙山は、花子の左眼硝子体の全てを切除しながら吸引し(剥離した網膜の裏側に入り込んだ部分を含む。ここで硝子体の全てを取り除くのは、花子のように網膜剥離が発症した後は、ヘルペスウイルスやサイトメガロウイルス等による炎症が網膜のみならず硝子体にも及んでおり、一旦炎症が硝子体にまで及ぶと硝子体全部を取り除かなければ、再発を防止できないためである。)、網膜上の増殖膜(網膜上に張ってくる特殊な膜で、この膜が収縮することにより網膜に皺ができ、網膜剥離をさらに悪化させることとなるため、これを取り除かないと網膜を元の位置に復位させることができない。)を剥離した上取り除くとともに、切除された硝子体の代わりに灌流液(眼球内にもともとある房水という水に真似て人工的に作った水で、リンゲル液が用いられる。)を花子の眼内に注入した(この手技は、硝子体を切除・吸引したままにすると眼球がしぼんでしまうため、これを注入することにより眼球を球状に保つために行われる。)。花子の網膜の一部は、壊死を起こしており、眼球内に強い繊維化が起こっていた上、血管の閉塞などを伴い、かつ広範囲にわたって、網膜剥離が起こり異常な増殖組織が存在したため、右切除、剥離等の各手技は、非常に繊細で高度な技術が要求される困難なものであった。

(六) 午後五時二五分ころ、被告丙山は、右増殖膜の剥離、除去の手技が終了したところで、花子の左眼に注入していた灌流液を空気と交換するよう指示し、本件看護婦らが空気灌流装置のスイッチを入れ、花子の左眼に対する空気の注入が開始された(前記のとおり、そもそも網膜剥離という病気は、網膜に穴があいて、穴からの眼内の水等が網膜の後ろに入り込むとともに網膜が脈絡膜から剥がれる病気であるところ、右のように硝子体や増殖膜、網膜の炎症部分を切除・吸引しただけでは、自然に網膜が脈絡膜に癒着するわけではなく、一時的に既に注入していた灌流液を空気に置換することにより、空気の圧力をもって網膜を復位させる必要があることから、このような操作が必要となる。ちなみに、このように注入された空気は、時間とともに自然に吸引され、人体から出る体液と置換される。)。右のように花子の眼球に注入された空気は、室内の通常の空気と同様の組成であり、灌流圧は、二〇水銀柱ミリメートルないし四〇水銀柱ミリメートルに設定されていた。

右空気灌流の開始後、被告丙山は、網膜の光凝固(レーザー装置を使って、網膜の穴のあいている部分のまわりを焼き付けること。灌流液が完全に空気に置き換えられると、一時的に網膜は元の位置に復位するが、その上で網膜をレーザーで焼き付けることにより、脈絡膜と癒着させるために行われる。)を施行した。

(七) 午後五時三〇分ころ、右光凝固が終了した後、被告丙山は、網膜冷凍凝固(右光凝固だけでは、網膜を脈絡膜に癒着させる力が弱いため、強膜側から眼球を冷却することにより右接着力を増す操作)を行うこととし、その際、シリコンスポンジ(シリコンで出来たスポンジで、強膜及び脈絡膜を網膜側に近づけるために使用するもの。本件手術においては、その断面の横径が五ミリメートル、縦径が三ミリメートルで、高さ一〇ミリメートルの楕円柱形のものが使われた。)を花子の左眼強膜に縫着するため糸(ダクロン糸)をかけた。この時点においては、花子の左眼強膜に開けられた前記三個の穴のうち、二個は既に縫合され、灌流空気を眼内に注入するための穴のみが開口し、これにインヒュージョン・チューブが取り付けられている状態であった。

(八) 午後五時四五分ころ、右のように被告丙山が花子の左眼強膜に糸をかける操作を行っていたところ、花子は、「ウッ」という声をあげた。そこでA医師が花子に対し、「痛いですか。」と声をかけたところ、同女は、「少し息苦しいだけです。」と答えた。さらに被告丙山が花子に対し、「大丈夫ですか。」と質問すると、同女は、「大丈夫です。」と答えた。

その際、被告丙山及びA医師は、花子の脈拍及び血圧等が正常であることを、それぞれ心電図及び血圧計によって確認した上、花子が、その時点で既に本件手術の開始から長時間が経過していたことから、精神的に苦痛や息苦しさを感じているものであり、しかも、眼球の内部よりも痛みを感じることが多い眼球の外部の手技を受けていたことから、その部分の疼痛を感じて、右「ウッ」という声をあげたにすぎないと判断し、本件手術をそのまま継続することとした。

(九) 午後五時五五分から午後六時ころ、さらに被告丙山が、シリコンスポンジを取り付けるため、花子の左眼強膜に糸をかけていたところ、突然、花子に体動が発生し、全身をガクガクさせた後に暴れ出し、やがてその動きは止まった。

(一〇) そこで、被告丙山が花子のドレープをとると、同女は、その舌根が沈下しており、自発呼吸は少し認められたが、それもすぐに停止した。さらに、同女の脈拍は確認することができず、血圧の測定は不可能であり、心音もしないという状況であった。

被告丙山は、直ちに心臓マッサージを開始し、A医師が、本件看護婦らに指示して気管内挿管(呼吸が停止しているため、人工的に呼吸を行わせるために、気管の中に酸素を送り込むためのチューブを入れること)の用意をさせ、人工呼吸を行った。

これらの処置を行ったにもかかわらず、花子の容態は変わらなかったため、A医師は、カルニゲン(強心昇圧剤)、イノバン(急性循環不全改善剤)及びノルアドレナリン(昇圧剤)各一アンプルを花子に静脈内注射した。

(一一) 被告丙山が花子に対し心臓マッサージを開始してから二〇分から二五分くらいが経った後、A医師は、乙川医師を呼んだ上、被告丙山とともに協議をした結果、午後六時ころ、慈恵医科大病院麻酔科医であるG医師に連絡することとした。このような協議の間も、被告丙山らは、花子に対する心臓マッサージなどの蘇生術(死亡しかけている患者を救うための行為全般を指すもので、人工呼吸などを含む。)を継続して行った。

(一二) 午後七時五分ころ、右G医師及び同大麻酔科医である安田医師(以下、併せて「本件麻酔医ら」という。)が被告病院に到着し、被告丙山ら被告病院の医師は、蘇生術の実施を本件麻酔医らに交代した。

本件麻酔医らは、花子に対し、メイロン(重曹、解毒剤)及び塩化カルシウム(カルシウム剤)各一アンプルを鎖骨下静脈内注射したが、花子の右容態は変わらなかった。さらに本件麻酔医らは、花子に対し、メイロン、0.02パーセントプロタノール(組織循環促進剤)及びカルチコール(カルシウム補給剤)を頚静脈内注射したが花子の状態は変わらなかった。

さらに、本件麻酔医らは、花子に対し、メイロン、プロタノール各一アンプルを心臓注射するが容態は変わらず、花子は、午後八時四分に死亡し、これを本件麻酔医らが確認した。

二  右認定の事実を前提に争点1(被告らの過失の有無)について判断する。

1  争点1(一)花子の空気栓塞症惹起における被告らの過失の有無)について

(一) 原告らは、本件死亡が空気栓塞症によるものであり、右空気栓塞症の原因となる空気の入路は花子の左眼脈絡膜の血管であることを前提とした上で、本件手術において、被告丙山らが空気灌流装置を用いて、強制的に花子の左眼に空気を注入し続けた結果、右空気が同女の右心房、肺毛細血管に達し、よって空気栓塞症を引き起こし花子を死亡させたものであると主張する。

(二) そこで、本件手術中、空気灌流装置によって花子の左眼内に注入された空気が脈絡膜内の血管に侵入し、これが同女の心肺に達した可能性が認められるかにつき検討する。

(1) 確かに、甲第一、第三号証、証人鈴木の証言及び被告丙山本人尋問の結果によれば、本件解剖時、花子の右心房には空気が存在し、また、肺毛細血管内に球状の気腫様のものが連珠状に存在したこと、右の右心房内の空気は、酸素が3.9パーセント、窒素が59.9パーセント、二酸化炭素が36.2パーセントであり大気の組成と異なることから、本件解剖前から存在していた可能性が大きいこと(もっとも、乙第一四号証によれば、司法解剖における剖検の手技としては、一般に開胸・開腹後に心臓摘出が行われるが、その際には、先ず左手で心臓尖端部後壁を支えて、最初に下大静脈流入根幹部を一気に切断するものであり、この瞬間、大気は右心房と流通するものであると認められるから、右の右心房内の空気は本件司法解剖時に流通した大気が混入したものである可能性もまた否定できないものといわなければならない。)、右肺毛細血管内の球状の気腫様のものの大部分は気体であること、一般的な状態における脈絡膜内の血管の静脈圧は約二〇水銀柱ミリメートルであるのに対し、本件手術における灌流圧は約二〇水銀柱ミリメートルないし四〇水銀柱ミリメートルに設定されていたものであり、右灌流圧は静脈圧よりやや高く設定されていたものであることがそれぞれ認められる。

(2)(イ) しかしながら、乙第一一ないし第一四号証、検乙第一号証、被告丙山本人尋問及び鑑定人田野保雄の鑑定の各結果並びに弁論の全趣旨によれば、内頚動脈より分枝した眼動脈は、視神経とともに視神経管に入り、それから毛様体動脈と網膜中心動脈という二つの動脈に分かれるが、このうち、後毛様体動脈が脈絡膜に行く動脈であり、これらの動脈は、脈絡膜や毛様体(ブドウ膜の一部で、後方は脈絡膜と連結し、角膜強膜境界の内側で水晶体を取り囲み、輪状をなして存在する。)などを栄養した後、渦静脈(脈絡膜の各象限に各一本ずつ計四本ある静脈で、眼球赤道部よりやや後方に位置してヒトデのように多数の静脈が集合して形成されるもの)に集まって眼球の後壁で強膜を斜めに通り抜け、海綿静脈洞を経て内頚静脈に入るところ、これらの各動静脈の直径は、いずれも0.05ないし0.1ミリメートル前後の太さであること、これに対して、本件手術において、インヒュージョン・チューブの先端に取り付けられ、花子の眼内に留置された灌流針は、外径約一ミリメートルのものであり、右各血管の直径の一〇倍ないし二〇倍もあること、また、右灌流針の長さは、約四ミリメートルであるのに対し、眼球の直径は約二四ミリメートル程度であり、灌流針の根本部分にはストッパーがあるため、灌流針の先端が眼球後部の脈絡膜に接する可能性はないこと、仮に、何らかの理由で、空気灌流中に灌流針の先端が脈絡膜内に没すれば、網膜下腔の空気灌流や脈絡膜上腔の空気灌流を生じる可能性があるが、空気灌流下では、眼内液と空気との界面張力によって強膜、脈絡膜及び網膜は密着しており、逢着糸が外れ、灌流口が著しく抜去に近い状態にならない限り、先端が脈絡膜内に没することはあり得ないこと、したがって、通常は、灌流口である灌流針が脈絡膜内の血管に接着することはおろか、網膜下腔空気灌流や脈絡膜上腔空気灌流を起こすものではないこと、万が一右網膜下腔空気灌流や脈絡膜上腔空気灌流が起こった場合であっても、術者は網膜又は脈絡膜の膨隆によってこれを認識しうるものであるにもかかわらず、本件手術においては、花子に右膨隆その他の異常は何ら発生しなかったことがそれぞれ認められる。右各事実からすると、インヒュージョン・チューブの先端に取り付けられた灌流針が脈絡膜内の血管内に留置され、そこから空気が侵入した可能性は認め難いものといわざるを得ない。

(ロ) また、前記認定の事実に加え、乙第二、第三、第一〇、第一四号証及び本件鑑定の結果によれば、本件手術において行われた空気灌流装置による空気の注入(液空気置換術)は、本件手術中最も繊細で高度な技術が要求される増殖膜の剥離と切除などの各手技が終了し、網膜が可動性を取り戻した後になって行われたものであること、右増殖膜剥離等の手技を行っている際に網膜血管や脈絡膜内の血管の損傷が起こりうるとしても、右損傷が発生した場合には大量の出血があり、術者は、右出血が生じることによって直ちに右損傷を認識し、止血処置を行う緊急の必要性に迫られること(硝子体手術においては、このような出血による合併症は深刻なものであるから、これを防ぐために、右出血をコントロールするあらゆる試みがなされるべきであるとする文献も存在する。)がそれぞれ認められ、右各事実に、本件全証拠によっても、右大量の出血があったことや本件手術における空気灌流下で被告丙山らが花子に対し特に血管損傷を起こすような処置を施したことを認めることができないことなどを総合すると、本件手術中、被告丙山らの行った手技によって脈絡膜内の血管が損傷したとは認め難いものといわなければならない。

(ハ) さらに、乙第三、第一四号証、被告丙山本人尋問及び本件鑑定の各結果によれば、硝子体内に空気を灌流した場合には、空気は、硝子体内ではひとつの大きな気泡となって存在し、微小血管に入るほどの極小気泡にはならないこと、空気灌流圧によって、網膜血管及び脈絡膜血管は、いずれも眼球壁面に圧迫され、もし血液循環に要する血管内圧よりも高い空気灌流圧を用いれば、血管は極端に細くなったり虚脱し、ときには閉塞すること(そのため、この現象を利用して、手術中に著明な出血が認められた場合に液空気置換を行い、高い空気灌流圧下で止血を行うことを推奨する報告・文献すら存在する。)、人の臓器とその支持組織は、大気圧下にあり、細動静脈や毛細血管は、いずれもこの大気圧下で血液循環を維持するための脈圧が存在するのであって、その結果、脈圧は、大気圧よりも高くなっていること、したがって、血管を損傷した場合には、生体反応として右血管に収縮現象がみられるほか、通常は出血をきたし空気が右血管内に入ることはないこと、しかも一般的な状態の下では約二〇水銀柱ミリメートル程度である脈絡膜内の血管の脈圧も、血液循環を確保するため眼内圧を常に上回るよう四〇水銀柱ミリメートルから五〇水銀柱ミリメートルにも変化することがあることが認められ、右各事実を総合すると、たとえ花子の左眼脈絡膜内血管に何らかの原因で損傷部位が存在し、これが開口していたとしてもそこから空気が入る可能性は想起し難いものといわざるを得ない。そして、仮に、右のような損傷部位が存在したとすれば、数百ミクロンはあるはずであり、一般的な顕微鏡検査、又は実体顕微鏡による検査によってこれを特定できるはずである(弁論の全趣旨)にもかかわらず、司法解剖の行われている本件において、本件全証拠によってもこれを全く特定することができないことをも併せ考えると、本件手術中、空気灌流装置によって花子の左眼内に注入された空気が脈絡膜内の血管に侵入し、これが同女の右心房、肺毛細血管に達したものと認めることは困難である。

(3) なお、原告らは、甲第一、第三号証及び証人鈴木の証言には、本件司法解剖時に花子の左眼脈絡膜内の血管には異常な拡張部位が存在した旨の記載及び供述があるのであるから、本件死亡の原因となった栓塞子たる空気の侵入路が右脈絡膜内の血管であることは明らかであると主張する。

しかしながら、被告丙山本人尋問の結果によれば、脈絡膜内の各血管の太さは平均しておらず、しかも常に変化するものであることが認められ、その上証人鈴木の証言によれば、鈴木は、本件司法解剖において脈絡膜内の血管が拡張していたとの判断をするにあたって、右拡張があったとする血管部位の太さを計測していないと認められることなどからすると、右部位は、元来右血管が有していた内径であった可能性も否定できず、これが異常に拡張していたものであるとする前記記載及び供述には疑問が残るのみならず、前記認定のとおり、花子は長期間にわたって眼内の炎症を患っており、しかも本件手術時には、花子の左眼内には、広範囲にわたって異常な増殖組織が存在していたものであることをも併せ考慮すると、仮に右血管に拡張した部位が存在したとしても、右拡張部位は、花子の眼内炎に続発した変化とみることもできるのであって、これが空気によって生じたものであるとか右空気が本件手術中の空気灌流によって注入されたものであると認めることはできない。さらに、乙第一四号証及び弁論の全趣旨によれば、空気が栓塞子として侵入する血管は静脈系であり、仮に渦静脈の上流にある脈絡膜内の静脈に空気が栓塞子として侵入したとしても、この空気は瞬時にして渦静脈を経て内頚静脈に流入するものであり、剖検時、依然として脈絡膜内細静脈や毛細血管内に栓塞子として存在するとは考え難く、また、血管は、仮に、一時的に空気によって拡張したとしても、その空気が存在しなくなれば元の内径に戻るものであることが認められる。そうすると、脈絡膜内の血管に拡張した部位が存在することを根拠として、ここから空気が侵入したとする原告らの主張を採用することはできない。

(三)  このように、右空気の侵入経路が花子の左眼脈絡膜血管であると認めることはできず、また、前記認定の事実並びに乙第一三、第一四号証、証人鈴木の証言、被告丙山本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、空気栓塞症によって人が死亡するには、栓塞子として少なくとも七〇ミリリットル以上の空気が注入されることが必要であるにもかかわらず、一般に本件術式による手術の場合、一眼を満たす空気の量は四ミリリットルないし五ミリリットル程度であり、実際本件手術における花子の眼内への空気の注入は、内径わずか0.7ミリメートルの灌流針の先から約二〇水銀柱ミリメートルないし四〇水銀柱ミリメートルの灌流圧をもってなされたものにすぎず、しかも空気灌流の開始から花子の容態が急変するまでには約三〇分しか経過していないこと、仮に、患者の肺に空気栓塞子によるこれらの所見が認められると仮定したとしても、死亡に至る経緯は呼吸促迫症候群や血管内凝固症候群としての経過を辿るものであり、急性死ないし突然死を惹起するとは考えられないこと(すなわち、仮に、花子の本件手術中の容態急変が空気栓塞症によるものであるとすれば、血液循環動態の原則からみて、本件手術における硝子体の切除後、しかも、空気を注入した直後に、瞬時にしてこのような病態が惹起されなければならず、また、肺栓塞症で突然死する場合は大きな栓塞子が肺動脈の主幹やその肺葉枝の大部分を閉塞するためであると考えられ、一方、本件患者の場合に認められたとするような肺胞毛細血管や細動脈に広範に空気栓塞を生じる場合は、例えば肺脂肪栓塞症などの場合と同様、呼吸促迫症候群や、血管内凝固症候群を惹起するものと考えられるのである。)、眼内の血管のような極めて細かい血管から空気が侵入すれば、小さな気泡が少しずつしか心臓に達せず、しかも、右空気は、大量の血液に入った小さな気泡であるので、心臓に貯留することなく血液とともに肺動脈に到達していくものであること、患者に対し、心臓マッサージを長時間継続して行うと、その心肺に空気が入る可能性があるところ、被告丙山及び本件麻酔医らは、花子に対し、およそ一時間以上にわたって心臓マッサージを行っていること、本件解剖時に花子の右心房に存在した空気及び肺毛細血管内の球状の気腫様のものは、いずれも花子の死後、組織の自家融解によって発生したガスである可能性も否定できず、また通常の肺組織間質には、常在的、散在的に微小滴性脂肪球が存在するものであることなどがそれぞれ認められることなどを総合すると、仮に花子に対する本件司法解剖の結果認められた同女の心肺の一部に存在した気体が同解剖の前から存在したものとしても、その死亡原因が空気栓塞症によるものであるとはいまだ断定することができず、鈴木作成の死体検案書(甲第一号証)及び調査報告書(甲第三号証)は、いずれもこれを採用することができないものといわざるを得ない。

(四) 以上の認定、説示に、乙第一四、第一五号証及び被告丙山本人尋問の結果によれば、およそ二〇万から三〇万例の硝子体手術の臨床医学上、眼内空気注入(灌流)によって、細動静脈又は毛細血管レベルの損傷を介して空気栓塞症が惹起され、その結果患者が死亡するに至ったとする報告例は全く無いこと、一般の文献にも、硝子体手術において予想される危険として、空気灌流時に血管内に空気が侵入することによって生じる合併症の発生について注意を促すような記載はないことをも併せ考慮すれば、争点1(一)(花子の空気栓塞症惹起における被告らの過失の有無)に関する原告らの主張を採用することはできないものというべきである。

2  争点1(二)(花子のアシュネル現象惹起における被告らの過失の有無)について

(一) 原告らは、仮に本件死亡が空気栓塞症によるものとは認められないとしても、花子は、被告丙山らによって眼球(外眼筋)に力を加えられた結果、アシュネル現象を引き起こし、よってその心拍が停止したものであり、右花子のアシュネル現象惹起については、被告丙山らに過失があると主張する。

(二) そこで検討するに、本件鑑定の結果によれば、アシュネル現象とは、眼球心臓反射(oculocardiac reflex〔OCR〕)ともいい、眼球圧迫、あるいは外眼筋、結膜、眼窩組織への牽引などによって、三叉神経第一枝が求心路となって迷走神経を介する反射であり、最も多い反応は、心拍数の一〇パーセントから五〇パーセントの低下を示す徐脈であるが、その他の心機能異状、ときには心停止をきたすこともあるものであるところ、これは一般に、迷走神経の緊張が高い若年者に多く発生し、また、外眼筋に対する処置が主たる手術目的である斜視手術で起こりやすいとされるが、網膜剥離手術や眼球を圧迫するものであれば眼科手術以外でも生じうるものであることが認められる。

そして、前記認定の事実に、乙第一四号証及び本件鑑定の結果を総合すれば、本件手術においては、花子の左眼網膜と脈絡膜との接着を強化するため冷凍凝固法がとられ、その実施にあたってシリコンスポンジをダクロン糸をもって花子の左眼強膜にくくりつける手技が行われたこと、この手技においては、眼球そのものを動かしたり、外側から圧迫することが不可避であること、右手技を行っている最中、花子は「ウッ」という声をあげ、さらに、その一〇分から一五分後容態を急変させた時点においても、被告丙山は、花子に対し右手技を行っていたものであること、文献には、眼球を圧迫し眼球と心拍動との関連をみることによって自律神経の機能を検査する方法として「アシュネル試験」が存在するが、この試験を実施するにあたって圧迫が強いと心拍停止をきたすおそれがあるから、これに注意を促す旨の記載もあることがそれぞれ認められ、右各事実に、本件手術にあたった被告丙山自身も、本人尋問において、花子が本件手術中にアシュネル現象を起こした結果死亡した可能性もある旨供述していることをも併せ考えると、花子は、被告丙山が花子の左眼強膜にダクロン糸をもってシリコンスポンジをくくりつけている際、アシュネル現象が発生し、これが原因で心拍が停止して死亡するに至ったものであるとの可能性自体は否定することはできない。

(三) しかしながら、乙第一号証の一、第五号証の一、二の一、四ないし一五、被告丙山本人尋問及び本件鑑定の各結果によれば、アシュネル現象の発生の危険性に関しては個人差があり、特定の患者についてその発生の危険性を事前に判断するのは困難であること、被告病院は花子に対し、本件診療契約を締結して以来、眼科的諸検査のほかに全身の検査も経時的に実施していたものであるところ、本件手術までの右検査の結果においても、同女の心臓には格別の疾患はなく、また血圧も正常であるという診断がなされていたこと、文献等によっても、眼科手術において、患者がアシュネル現象を起こしたという報告例は殆どないこと、しかも眼科手術のなかでもとりわけ本件手術のような硝子体手術を併用したかたちでの網膜剥離の手術においては、灌流孔を設置した後に硝子体を切除し、必要に応じて白内障手術を行い、その後、網膜復位の妨げとなっている増殖膜を剥離切除するが、この間、眼圧は、灌流液の水面の高さと眼球の高さによって生じる圧勾配(静水圧)及び強膜創からの液の漏出度に依存して規定される灌流圧と等しく、通常灌流圧は、網膜毛細血管の圧以下となるよう四〇水銀柱ミリメートル以下に設定して手術が行われるため、実際上はさらに数水銀柱ミリメートル程度は低い眼圧で行われること(時には、止血を目的として極めて高い灌流圧を用いることもあるが、短時間であれば、一時的な高眼圧による合併症はない。)、このように本件手術において採用された硝子体切除術では、術中眼圧変動が少なくより生理的条件に近い状態で手術を行うことができることが特徴であること、本件手術において増殖膜を切除し、網膜の可動性を取り戻した後に行われた空気灌流及び網膜下液の吸引、網膜裂孔周囲への凝固操作としての眼内レーザー光凝固及び冷凍凝固並びに空気灌流下での強膜へのシリコンスポンジの設置などの一連の各作業中も右液灌流下と同様に、眼圧は予め設定した空気灌流圧と等しいかそれよりもやや低いものであること、この際、仮に外部から眼球を圧迫したとしても、通常、眼圧は常に空気灌流圧とほぼ等しく、一定に保たれていること、被告丙山が、本件手術に至るまで、このような特徴を有する硝子体切除術を併用したかたちでの網膜剥離手術において、患者にアシュネル現象が発生したとの報告を全く受けたことがなかったことが認められ、以上の事実に照らすと、仮に、被告丙山が、眼科医として、眼科手術中のアシュネル現象の発生可能性について、一般論としてこれを認識することができたとしても、本件手術にあたって、その具体的発生の危険性を予見することは不可能であったものといわざるを得ない。

(四) 以上の認定、説示に、前記認定のとおり、被告丙山ら本件手術の担当医師及び本件看護婦らが、手術開始の直後から花子に血圧計、心電図等を取り付けその全身状況を把握していたにもかかわらず、本件全証拠によっても、花子が、本件手術開始からその容態を急変させるまでに、アシュネル現象の発生を予見・認識させるような具体的兆候(血圧又は脈拍の異常など)を示したとは認められないことを総合すると争点1(二)(花子のアシュネル現象惹起における被告らの過失の有無)に関する原告らの主張を採用することはできない。

3  争点1(三)(被告らの手術中止義務違反の有無等)について

(一) 原告らは、本件手術中、花子は「ウッ」という声をあげたのであるから、被告丙山らは、これによって、花子の空気栓塞症又はアシュネル現象の発生を認識し、直ちに本件手術を中止すべきなどの注意義務があったのに、これを怠ったものであると主張する。

(二)(1) 確かに、前記認定の事実によれば、花子が本件手術中である午後四時ころ、「ウッ」という声をあげたにもかかわらず、被告丙山らは、手術をなお続行した事実が認められる。

(2) しかしながら、被告丙山本人尋問及び本件鑑定の各結果によれば、一般に、局所麻酔によって眼科手術を受けている患者は、術野を除く顔面全体にドレープ(覆布)が被さっていることから、心理的要因によって息苦しさを訴えることが多く、特に網膜剥離の手術を受けている患者は、例えば、比較的早期に麻酔効果が低減する結膜に触れたような場合など、疼痛を訴えることがしばしばあることが認められ、前記認定の事実によれば、花子は、右声を発した時点においては、既に約一時間四五分にわたって顔面にドレープをかけられつつ眼球の手術を受けていたものと認められるから、具体的な身体的異常の発生の有無にかかわらず、心理的にかなりの苦痛を感じる客観的状況にあったものというべきである。しかも、前記認定のとおり、花子は、本件手術までに多数回の眼科手術を受けており、麻酔が効きづらい身体であったと認められる(現に、花子は本件手術において、痛みがなかなかとれなかったため、繰り返し球後麻酔を受けたことが認められる。)ところ、右発声時には、眼球の内部よりも痛みを感じることが多い眼球の外部(強膜)に対する手技を受けていたのである。このような状況において、被告丙山らは、前記認定のとおり、花子が右発声の後にした「少し息ぐるしいだけです。」「大丈夫です。」との各返答を聴取した上、心電図モニターや血圧計によって、花子の心拍、血圧等が正常であることを確認した結果、花子の右「ウッ」という声が、同女の心理的要因又は麻酔効果の低減により発せられたものであるとの判断を下して本件手術を続行したものであるから、この判断には合理的な根拠があったものというべきである。そして、前記認定、説示のとおり、本件死亡の原因が空気栓塞症によるものであると認めることはできず、また、花子にアシュネル現象が発生した可能性があるとしても、本件手術の状況下では被告丙山らがその発生を具体的に予見、認識することはできなかったというべきであるから、被告丙山は、花子の「ウッ」という発声を認識したとしても、その時点において本件手術を中止すべき義務はなかったものというべきであり、また、前記認定の事実によれば、被告丙山らは、右発声の後、花子に対しさらに問診を重ね、血圧、脈拍等にも異常がないことを確認した上で本件手術の続行を決定したことが認められるから、被告丙山は、花子のより詳細な全身状況の把握につとめた上、その時点で認識し得た客観的状況に対応した合理的かつ妥当な判断を下したものというべきであって、被告丙山らの右各行為が右発声に対応した処置として不適切なものであったとは認められない。

(三) したがって、争点1(三)(被告らの手術中止義務違反の有無等)に関する原告らの主張は、これを採用することができない。

4  争点1(四)(被告らの回復措置執行義務違反の有無等)について

(一)(1) 原告らは、被告丙山らが、本件手術中花子が容態を急変させた後、適切な回復処置を施す注意義務を怠ったものであると主張する。

(2) 確かに、手術が、これを受ける者に対する肉体的な医的侵襲行為を伴うものであり、本来的にその死亡の結果を惹起する危険を有する性質のものであることからすると、患者の生命、身体の健康を維持・管理するために最善を尽くすことを第一次的責務とする医師の職務の性質上、手術担当医師としては、手術を行うにあたっては、常に患者の全身(呼吸、血圧、脈拍等)状況を把握した上、患者に自発呼吸の停止や血圧の低下などその生命の危機が切迫するような容態の悪化があった場合には、これに対応した適切な救護、救命の措置をとるべき注意義務を負っているものというべきである。

(3) しかしながら、前記認定の事実、とりわけ、花子が本件手術中突然体動を発生させこれが治まった後、被告丙山ら本件手術担当医師及び本件看護婦らは、直ちにドレープを除去して花子の呼吸、脈拍及び血圧等の各確認作業を行い、同女の自発呼吸が停止し、しかも脈拍の触診及び血圧の測定がいずれも不可能であったという状況から、その生命が存続の危機に瀕しているものと判断した上、即座に蘇生術の施行を開始していること、右蘇生術においては、被告丙山らは花子に対し、心臓マッサージ及び気管内挿管による人工呼吸を継続して行い、同時に、強心昇圧剤、急性循環不全改善剤等を投与していること(被告丙山本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、被告丙山とともに花子の蘇生術にあたったA医師は、昭和六〇年七月から翌六一年五月までの間、慈恵医科大病院麻酔科における研修を受け、その際、蘇生術の研修も受けたものであり、花子に対して行われた右蘇生術は、右研修内容に副ったものであったことが認められる。)、さらに被告病院は、本件麻酔医らに、花子に対する蘇生術の実施を依頼し、右麻酔医らは、花子に対し、重曹、解毒剤、カルシウム剤、組織循環促進剤を静脈注射するなどしてその蘇生にあたったこと、この間も、被告丙山らは、花子に対する心臓マッサージ及び気管内挿管による人工呼吸を継続していたことなどからすると、被告丙山らは、花子に対し、その容態急変に対応した適切な処置をとったものというべきであり、本件全証拠によっても、花子の容態急変後に行われた被告丙山らによる治療行為について、花子の死亡原因となるような不適切な点があったとは認められない。

そして、原告らが、花子の容態急変後被告丙山ら自身がいかなる処置をとるべきであったのか(注意義務の内容)及び被告丙山らがとったいかなる措置が右注意義務に違反するものであるのか(注意義務違反行為)について、いずれもこれを具体的に主張、立証せず、また、前記認定の事実によれば、花子は、本件手術中における突然の体動が治まったときには、既に自発呼吸停止、血圧降下及び脈拍消失等の状況に陥っていたと認められるから、仮に被告丙山らが、その時点において、本件手術中に行われたもの以外のさらなる蘇生術を実施したとしても、花子の救命可能性があったのかについては疑問が残ることなどからすると、被告丙山らが花子の容態急変後に適切な回復措置をとることを怠ったことにより本件死亡の結果が発生したものであるとする原告らの主張を採用することはできない。

(二)(1) また、原告らは、被告らが本件手術において、全身麻酔の方法を採用せずに局所麻酔の方法を採用したこと、又は麻酔医をこれに立ち会わせなかったことをもって、被告らの注意義務違反を構成するものであると主張する。

(2) しかしながら、被告丙山本人尋問及び本件鑑定の各結果並びに弁論の全趣旨によれば、局所麻酔とは局所麻酔薬を用いて知覚神経が末梢受容器から中枢に達するまでの伝導経路をいずれかの部位で局所的・可逆的に興奮伝達を一時的に遮断し、その神経の支配領域の感覚を除く方法で、患者の意識消失を伴わないものをいうところ、本件手術のような眼科手術の特性として、ドレープ(覆布)によって術野を除く患者の顔面全体が隠されているため、手術中に患者の表情の確認が不可能なことが挙げられ、そのため術者は、血圧計や心電図等からの情報とともに、適宜口頭で患者の容態の確認をする必要があること、また、局所麻酔を採用した場合の利点として、非常に高度で繊細な技術を要求される硝子体手術において、体位の変換等が必要となった場合など(例えば、網膜上の繊維、血管の増殖が眼底の周辺部にまで及んでいるときには、上側、鼻側、耳側像限の中間周辺部眼底を見やすくするために、患者自身に左右上下に頭位を変えてもらうとやりやすいし、本件手術のように、巨大網膜裂孔〔九〇度以上の網膜裂孔〕が発見され、伏臥位での液空気置換が必要となったときなどに、適当な時期に患者にこの体位をとらせることができる。)には、患者の協力のもとにこれを行うことができること(特に、花子は、網膜裂孔が多数存在したことから、本件手術中に体位の変換が必要となる可能性が高かった。)、薬品の使用が少なくて済み、有害作用の危険が少ないこと、さらに、局所麻酔は、術後嘔気や嘔吐症状の出現が少ないし、本件手術のような硝子体手術を行った症例では、眼内出血も少ないことなどがあげられ、そのため、眼科手術においては、術中に患者との意思疎通が図れない場合(例えば、患者が幼小児、精神障害者である場合等)や患者が不動を保てず手術の障害となる患者の体動が不可避である場合、一〇時間以上もの長時間に及ぶ手術の場合などの特段の事情のない限り、局所麻酔は全身麻酔よりも優れたものであるとして、これを積極的に採用する眼科専門医も多いことがそれぞれ認められ、右各事実によれば、被告らには、本件手術において、全身麻酔を採用すべき注意義務があったということはできないのみならず、前記認定のとおり、本件手術においては、花子に対し、A医師が慈恵医科大病院麻酔科で受けた研修内容に副った蘇生術が行われていること、仮に、本件手術において麻酔医がこれに立ち会い、花子の容態急変の直後からその蘇生術にあたっていたとしても、花子の死亡という結果を回避できたと認めるに足りる証拠はないことなどからすると、原告らの右主張も、これまた採用することはできない。

(三) そうすると、争点1(四)(被告らの回復措置執行義務違反の有無等)における原告らの主張は、これを採用することはできない。

4  確かに、花子は、幼い時に右眼を失明し、わずかに残された左眼も、様々な疾病の罹患を繰り返し、徐々にその視力も失われていく状況(被告丙山本人尋問の結果によれば、花子の左眼は、本件手術直前には目の前の手の動きがやっとわかる程度の視力しか残されていなかったことが認められる。)の中で、本件手術を受けることによって、少しでも視力が回復することを期待し、大きな希望を抱いていたと考えられるのに、その手術中に未だ四〇歳の若さで思いがけず命を落とすことになったというのであり、このような結果が発生してしまったことについての同女の苦痛、無念の情や、その遺族である原告らの衝撃、悲嘆の心情は察するに余りあるものがある(特に、眼科手術は、医的肉体侵襲を伴うものであるとはいえ、一般には術中の患者の死亡を予想し難いものであるということができるし、また、前記のとおり、花子の死亡原因については、アシュネル現象によるものであるとの可能性は否定できないものの、司法解剖が行われたにもかかわらず、本件全証拠によっても、これを確定的に判断することができないというほかないから、右心情がなおさら強いものであることは推察するに難くないところではある。)。

しかしながら、以上の認定、説示によれば、被告らに、花子の死亡の原因となるような注意義務違反があったものと認めることはできず、また、本件診療契約の本旨に従った適切な治療行為を行わなかったという債務不履行も認めることができないのであるから、本件死亡について、被告らに法律上の責任を問うことはできないものといわざるを得ない。

第四  結論

以上によれば、原告らの本訴請求は、その余の争点につき判断するまでもなく、いずれも理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条一項を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官満田明彦 裁判官宮武康 裁判官堀田次郎)

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